わたぽんの気持ち箱

紡がれる言葉たち

制度論の構図_pp.10-28

 ここで、「取引コスト・アプローチにおける企業の存在理由の説明の仕方が、内在的にも首尾一貫しないものであること」(本書、p.12)を指摘するために、新制度学派による取引コスト・アプローチの特徴について、本書は指摘する。議論の展開がやや分かりづらい感がある。

 ここで指摘されているのは、取引コスト・アプローチやほとんどの市場経済モデルが前提としている「市場」には時間が存在しないということである。そこにおける証明された効率性とは、「所与の資源状況と技術(生産関数)のもとで、人々の効用に関してパレート最適性をもたらすような資源の活用と生産物の配分を市場がもたらすという意味での効率性」(本書、p.11)のことである*1*2

 一方で、現実の市場メカニズムには当然時間が流れており、それゆえに創造性の発露がみられる。これが、市場メカニズムの「現実的」な効率性である(本書、pp.11-12)。

 

 続けて、取引コスト・アプローチが企業の「内部」「外部」を区別していないということをフーリーが批判しているという点が、本書によって指摘される(本書、p.12以降)。ただし、本書がすぐ指摘しているように、フーリーによるこの議論は批判としては成立していない。なぜなら、取引コスト・アプローチはむしろ企業の内部・外部に本質的な違いがあるということを積極的に否定しており、また、フーリーは、なぜ両者を区別すべきなのかについて説明していない(単に集合主義の立場を採っているだけ)からである。

 本書は、企業の内部・外部に区別があるということ、また、企業組織がある種の全体をなしている、という考えをもつという点で、フーリーと軌を一にしているけれども、それが企業という存在のいかなる本質的特性によって生じるのかという点について、フーリーの説明は不十分であると考えている(本書、p.17)。

 

 以上の問題は、そもそも「組織」とは何か、という問題に帰着させられる。これには、(1)組織の成員とは誰のことか (2)組織の目標とは何か という問題が関わっている(本書、p.18)。この二つを明確に定義することが困難であるという本書のここでの指摘については、本稿は割愛する。

 

 とりあえず重要なことは、従来の組織論が前提としてきた、誰が組織の成員で何が組織目標であるか、という点はまったく明確ではなく、それゆえ、従来の社会理論が「制度」の概念化に失敗しているという点である。

*1:パレート最適性を考えるにあたっては、財の種類と量の組合せにより効用が決定されることが前提とされているということが、濱島朗ほか編『社会学小辞典〔新版増補版〕』(有斐閣、2015年)の[パレート最適]の項でも指摘されている。

*2:Aさんから、①古典的ミクロ経済学では「経済主体は利益をあげるために何でもする」という前提があり、そのため本書でも取り上げられている「不確実性」概念を考える意義がない(可能なことは何でもするわけだから、そのそれぞれがどれだけ効果を上げるのかを考えても意味がない)のではないか ②「不確実性」概念を取り入れて、その後の行動経済学に繋がってくるのではないか というご指摘をいただいた。