まだ三日坊主にはならない二日目のブログ。引き続き平野千果子『人種主義の歴史』(岩波新書、2022年)*1を読むなかで考えたことを簡単に書きます。
第2章第2節「思想家たちと奴隷/奴隷制」において、人類の起源が一つか複数かという論点をめぐり「単元論(単一起源論)」と「多元論(複数起源論)」の二つの立場がみられるということが紹介されています(p.62-)。単元論は、人類はもともと同じく一つであって後天的に差異が生じたという考えで、多元論は、そもそも最初から人類は異なっていたという考えです。
気になるのは、多元論の扱われ方について。多元論を唱える思想家の具体例として、平野はヴォルテールを挙げています。『寛容論』を著したことでよく知られているヴォルテールですが、人種*2をめぐっては、「変えようのない本質的な相違ゆえに、黒人は他者の奴隷であるとも言明」(本書、p.63。)しています。また、ヴォルテールに限らず、その後奴隷制廃止運動(アボリショニズム)が高まってくるにつれ、運動反対派から、そもそも種として我々(白人)と彼ら(黒人)が異なる以上、優劣の差は埋められず、奴隷制は自然の摂理であるという理屈もきかれたといいます(本書、pp.65-66。)。
さて、このことを紹介したのは、差別を容認・礼賛する陣営と、反差別を主張する陣営の議論の仕方が、今日とは一見正反対にみえ、奇妙な感じがするからです。
多元論とどれほどパラレルに考えることができるかはわかりませんが、今日、「多様性」は反差別の文脈において積極的に肯定されるもののようにみえます*3。
「多様性」概念と「反差別」や「包摂」が内在的に結びつくものだと理解してしまうと、「多様であること」を理由とした差別を繰り返しても気づくことができないのではと考えた次第です。