わたぽんの気持ち箱

紡がれる言葉たち

「客観性」論文_[6]と[11]

マックス・ウェーバー(訳: 富永祐治・立野保男)『社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』』(岩波文庫、1998年)

 

 友人*1との読書会を通じて、先日記事を書いた*2[6]と[11]についての思考が進んだため、補足として記しておく。

 

[6]

 [6]の主張の一つは、ウェーバーが捉えた科学的考察というものは目的の目的適合性を見積もることができる、というものである。この読みはおそらく大きく誤っていない(「目的の目的適合性」という表現の是非はあるにせよ)。

 ただ、そのあとの部分の読解については、適切とは言い難かっただろう。私は、以上のように、ウェーバーの主張を「『目的aを立てること』の意義は、目的aの先にある(真の)目的Aを達成するうえで意義があるかどうか、という形で測定可能なはずである」という風に読み取り、ここから直ちに、アレント『人間の条件』における有意味性と有用性の論点を思い浮かべた。

 しかし、たしかに議論の構造はアレント功利主義に関するそれと似ているものの、だからといって、ウェーバーの主張は、アレントと同じ立場からのものでもなければ、アレントの批判対象でもないはずだ。私はてっきり、ウェーバーが、アレントの批判対象である功利主義と同様に、「目的aの意義は目的Aにとっての有用性(のみ)で判断される」ということを主張していると思ったため、ウェーバーアレントの批判対象であると思っていた。実際には、そんなことは多分ない。

 なぜなら、ウェーバーはここで、当該目的aとか目的Aの内実がどのようにある(べき)かということを一切論じておらず、ただ単に両者の関係に焦点を当てているだけだからである。すなわち、両者の関係についてしか論じていない以上アレントの批判対象と同じ匂いを感じるのは当然であるわけだが、別に、目的aの意義は目的Aとの関係のみから測定されるものではないはずで(少なくともそうウェーバーが考えている可能性は低くないだろう)、そうすると、結局両者それぞれの内部がどのような形をしているか、ということについてのウェーバーの考えが分からなければ、これをアレント(の批判対象)との対比で考えることはできない。

 

[11]

 前の記事では長々と、〔①〕〔②〕〔③〕の関係がわからないということを書いた。この点を悩んでいることについては、全く正当であったと思う。ただし、悩み方がもーりーとの読書会を通じて変わった。

 〔②〕「倫理的規範の『妥当』」について疑問を抱いていたが、ウェーバーが「妥当」という言葉にそれほどの意味を込めていないと解釈することが十分可能であって、そう解釈する方が適切であるように感じられる。

 ただし、そうだとしても、結局〔①〕〔②〕〔③〕の区別について私が感じる曖昧さは残る。ウェーバーはこれを「架橋しがたい区別」と述べているから、この感覚の違いは、ウェーバーの議論にこれから触れていくうえでの重要な参照点になると思われる。今後の課題としたい。

*1:彼にもこのブログの存在を教えたところ、直ちに彼もブログを開設した。リンクはこれである。

eduphilosophy2000.hatenablog.com

今後も彼との読書会で、考えが刷新されることが多いと思われる。その際は彼のことを「もーりー」と呼んで、私の記事に載せる。

*2:

watapon4869.hatenablog.com

watapon4869.hatenablog.com