わたぽんの気持ち箱

紡がれる言葉たち

「客観性」論文_[10]-[11]

マックス・ウェーバー(訳: 富永祐治・立野保男)『社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』』(岩波文庫、1998年)

 

[10]省略。

 

[11]長いため引用はしない。

 

 p.44「というのも、つぎのことは、あくまでも真であるからである。」の前後の論述がどのように対応しているのか、一見わかりづらい。

 〔①〕に対応するのは、「・・・科学的論証は、いかなるばあいにせよ、そうした目標を追求しなければならない・・・」という、「理念型」概念を想起させる部分かと思われる。

 順番は前後するが、〔③〕に対応するのは、「・・・ある理想につき、その内容を論理的に分析して、その究極の公理にまで遡り、・・・」という箇所だろう。これは難しくない。

 難しく思われるのは〔②〕である。これに対応するのは、以上のことを踏まえると、「すなわち、社会科学の領域で方法上正しい科学的論証が達成されたとすれば、それは、シナ人によっても正しい論証として承認されなければならない・・・」というところであろう。しかし、この読解は以下の二点の理由から間違いかもしれない。

 第一に、論述の順番がおかしい。(私の読解力不足ゆえ、私が分かりづらいと感じているだけかもしれない・・・。)

 第二に、科学的論証は「我々」とは異なる他者にとっても正しい(と認められる必要がある)という普遍主義的要請が、「倫理的規範の妥当が問題となるばあいに、われわれの良心に訴えているのか」という問題の具体例とはあまり思われない。私の考えでは、科学的論証が正しいと評価されるか否かというのは、そもそもそれが科学的論証たりうるか、という問題から生じる論点であって、それの「適用」における論点ではないように思われる*1法律学的な思考が有用かもしれない。

 

 

*1:前提として、私は、「科学的論証」を「倫理的規範」の具体例として読解している。そもそもこの前提が誤っているのかもしれず、そうすると、〔①〕と〔②〕の対応関係が前述のとおりなのかが怪しくなる。この前提が誤っている可能性は高いだろう。なぜなら、「妥当」という言葉は単に「倫理的規範」に対応する述語として用いられており、「科学的論証=倫理的規範」という読解を許すものではない、という可能性があるからである(「科学的論証」が「妥当」するとはどういうことなのか、一見わかりづらい。)。つまるところ、いずれ原文を読んで解消したい疑問ということである。今後の学習の課題としたい。