わたぽんの気持ち箱

紡がれる言葉たち

制度論の構図_pp.29-39

第二章 パーソンズにおける秩序問題

 盛山によれば、「組織を市場の一種として理解するかそれとも市場とは異なる組織それ自体の固有の特性を認めるかという対立」(本書、p.29)について考えるために、パーソンズの試みについて整理することが有用である。尤もそれは、パーソンズの試みが成功しているということを意味しないけれども。

 

一 功利主義的社会理論

 パーソンズは「実証主義的—功利主義的伝統」が秩序問題を解決していないとするが、本書によって注意点として、パーソンズにとっての功利主義は今日普通に理解されている功利主義と異なるという点が指摘される。そのため、あくまでパーソンズにとっての功利主義(以下「パーソンズ功利主義」と略記する。)とは何かということを、整理の前提にしなければならない。パーソンズ功利主義の特徴は、①原子論すなわち個人主義 ②合理性、すなわち行為は目的達成のための効率的な手段を選択する、という性質 ③経験主義 ④諸目的のランダム性 に分類される(本書、pp.30-33)。ここで、話は本筋から逸れるのだが、③と④を区別する意義はないのではないか、ということを指摘したい。
 ③の経験主義というのは、パーソンズにおいては、科学方法論の特性としての側面と、行為の特性としての側面をもつ。科学方法論の特性というのは、妥当な科学的知識というものは観測しうる事象のみに関する、観測し得るしうる事象に関する用語を用いた命題に限定される、とする立場を指す。このような考えは、我々が社会学として分析の対象とする行為の体系に対してのみ適用されるものではない。経験主義は、行為体系のなかのそれぞれの行為自体に対しても適用される考え方である。すなわち、「功利主義理論の中での所行為はそれ自体が科学的であり、経験主義的である」(本書、pp.30-31)。したがって、パーソンズ的経験主義によっては、行為に関する「主観的要素」を捉え得ない。
 以上を敷衍すると、次のように考えるのが自然であると思われる。すなわち、パーソンズ的経験主義の性質のみから④の諸目的のランダム性、つまり、個々の行為目的(主観的要素)が理論の内部で確定ないし規定されておらず、理論にとっては所与として扱われること(本書、p.31)が導かれる以上、③と④をあえて区別することの意義はないのではないか。
 さりとて、この点はおそらく重要ではない。①から④までで特徴づけられるようなパーソンズ功利主義が秩序問題を解決していない、というパーソンズの議論について、本書は検討してゆく。

 

二 「秩序問題」のイメージ

 

(1)論証のロジック

 ここから先は、なにがパーソンズの議論で、なにがホッブズの議論なのかということが若干分かりづらいため、注意して読んだ方がよい。パーソンズは、ホッブズの「自然状態」を「功利主義の純粋ケース」と考える。つまり、上記①から④の特徴をもつ社会である。ホッブズの説明では、自然状態においては人々が共通して「権力の獲得」を目指している。その目的の達成のために有用であると考えられる手段はいくつかあるけれども、諸個人は、他者がいつ攻撃してくるかわからないという状況の下で疑心暗鬼に駆られ、「攻撃」という手段を選択するようになる。
 一方でパーソンズにおいては、「権力powerへの限りなき闘争」は、あくまで自然状態からの帰結であって、ホッブズにおけるような「攻撃」(パーソンズの言葉では「暴力と欺瞞force and fraud」)の原因としてのものではない。
 つまり、暴力と欺瞞を諸個人が志向するということをパーソンズは所与としており、その理由を決して明らかにしていないのだが、それでは社会理論として失敗している。「ここから推察されるように、暴力と欺瞞の使用という秩序解体の状態へと社会を必然的に導く論理を立てるためには、社会の状況、すなわち、諸個人の目的、彼らの状況認知、代替選択肢の集合、等々が十分に特定化されていなければならない」(本書、p.36)。
 また、それは措くとしても、パーソンズにとって、権力への限りない闘争へと解体するようなホッブズの理論は、秩序問題の解決に失敗している。

 以上の本書pp.34-37の要約を踏まえたうえで、果たしてパーソンズは「暴力と欺瞞」の原因を説明していないのか、という点を今後の自らのリサーチ・クエスチョンとしたい。本書で引用されているパーソンズの「手段の使用、とくに暴力と欺瞞の使用の制限が欠けているところでは、事の本質上、その社会は権力powerへの限りない闘争へと解体していかざるをえない」(本書、pp.34-35)という箇所が気になる。たしかに訳を素直に読めば、「暴力と欺瞞の使用→権力への限りない闘争」としか主張していないのだと解釈するのが一般的だと思う。しかし、「していかざるをえない」は因果ではなく単に確信、つまり「暴力と欺瞞の使用の制限が欠けているならば、そのとき間違いなく権力powerへの限りない闘争を意味している」という文章である可能性もあると思う。つまり、「暴力と欺瞞の使用=権力への限りない闘争」という意味である可能性があり、そうだとすると、ホッブズの理論と大差なくなる。本書の論旨にとって重要な部分であるため、原典にあたって確認したい。

 

(2)「解決」の意味

 秩序問題を解決する/しない、ということの意味がパーソンズによって明らかにされていないということを、本書は指摘する。この点は難しくないため割愛する。

制度論の構図_pp.10-28

 ここで、「取引コスト・アプローチにおける企業の存在理由の説明の仕方が、内在的にも首尾一貫しないものであること」(本書、p.12)を指摘するために、新制度学派による取引コスト・アプローチの特徴について、本書は指摘する。議論の展開がやや分かりづらい感がある。

 ここで指摘されているのは、取引コスト・アプローチやほとんどの市場経済モデルが前提としている「市場」には時間が存在しないということである。そこにおける証明された効率性とは、「所与の資源状況と技術(生産関数)のもとで、人々の効用に関してパレート最適性をもたらすような資源の活用と生産物の配分を市場がもたらすという意味での効率性」(本書、p.11)のことである*1*2

 一方で、現実の市場メカニズムには当然時間が流れており、それゆえに創造性の発露がみられる。これが、市場メカニズムの「現実的」な効率性である(本書、pp.11-12)。

 

 続けて、取引コスト・アプローチが企業の「内部」「外部」を区別していないということをフーリーが批判しているという点が、本書によって指摘される(本書、p.12以降)。ただし、本書がすぐ指摘しているように、フーリーによるこの議論は批判としては成立していない。なぜなら、取引コスト・アプローチはむしろ企業の内部・外部に本質的な違いがあるということを積極的に否定しており、また、フーリーは、なぜ両者を区別すべきなのかについて説明していない(単に集合主義の立場を採っているだけ)からである。

 本書は、企業の内部・外部に区別があるということ、また、企業組織がある種の全体をなしている、という考えをもつという点で、フーリーと軌を一にしているけれども、それが企業という存在のいかなる本質的特性によって生じるのかという点について、フーリーの説明は不十分であると考えている(本書、p.17)。

 

 以上の問題は、そもそも「組織」とは何か、という問題に帰着させられる。これには、(1)組織の成員とは誰のことか (2)組織の目標とは何か という問題が関わっている(本書、p.18)。この二つを明確に定義することが困難であるという本書のここでの指摘については、本稿は割愛する。

 

 とりあえず重要なことは、従来の組織論が前提としてきた、誰が組織の成員で何が組織目標であるか、という点はまったく明確ではなく、それゆえ、従来の社会理論が「制度」の概念化に失敗しているという点である。

*1:パレート最適性を考えるにあたっては、財の種類と量の組合せにより効用が決定されることが前提とされているということが、濱島朗ほか編『社会学小辞典〔新版増補版〕』(有斐閣、2015年)の[パレート最適]の項でも指摘されている。

*2:Aさんから、①古典的ミクロ経済学では「経済主体は利益をあげるために何でもする」という前提があり、そのため本書でも取り上げられている「不確実性」概念を考える意義がない(可能なことは何でもするわけだから、そのそれぞれがどれだけ効果を上げるのかを考えても意味がない)のではないか ②「不確実性」概念を取り入れて、その後の行動経済学に繋がってくるのではないか というご指摘をいただいた。

制度論の構図_pp.1-10

盛山和夫『制度論の構図』(創文社、1995年)

 

 制度とは何か。本書はこの問いに対して決定的な解を提示しようとするものではなく、ありうべき答え(方)の概略について示そうと試みるものである。

 

 第一章「制度という問い」は、そもそもこの問いがどのような意味において難しい(価値ある)のかということを示す。

 

 「制度」を定義しようとしたとき、まず思い浮かぶのは行動主義的な記述らしい(本書、pp.3-4)*1。しかし、本書によれば、この定義はうまくいっていない。なぜなら、明らかに「制度」と呼ぶことができるような観念(「神」や「正義」など)は、決して人々の行動様式ではないからである*2

 とはいえ、行動主義的な定義は魅力的である。なぜなら、「制度」という目にはみえないものを、諸個人とかその行動という観測可能なものによって表現できるからである。もしかしたら、これまでの社会科学者はそのような魅力にとりつかれていたのかもしれない。実際には制度というものは理念的で観念的な性質をもつかもしれないのに、である(本書、p.7)。

 

 ここで、新制度学派の話が紹介される(1章第二節)。この節は、「制度という問い」の問いとしての意味が難しいということを示す、具体例として読むのが適切だと思われる。

 新制度学派が答えようとした問題は、「一体なぜ企業のような組織が存在するのか」(本書、p.8)というものである。本書の後で示されるような、企業というものはそれを企業たらしめる規範によって成立している、という見方をとれば、この問いは「制度とは何か」という問いに答えるうえで十分に有用なものであろう。実際に、新制度学派はそのように考えていたようである(本書、p.8)。

 新制度学派による上記の問いへの答えは、取引コストが存在するから、というものである。しかし、盛山によればこの回答は十分ではない。なぜなら、「市場」という場を前提として「制度」である企業を説明しようとするものでしかないからである*3

*1:本当にそうなのか、他の定義の仕方も十分あり得るのではないか、とは感じるのだけど、たしかに私も他の定義の仕方が思いつかない(思いつくとしても、何か超越的な概念をもちだしてしまうだろう)から、そうなのだろう。手元にある濱島朗ほか編『社会学小辞典〔新版増補版〕』(有斐閣、2018年)の「制度化」の説明も、「諸個人の行動様式が、制度と呼ばれるのに必要な属性を獲得する過程」となっている。

*2:ふとこの文章を書きながら疑問に思ったが、「神」や「正義」という制度を有するということは、神・正義〈を信じること〉だと思う。もしそういえるのであれば、たしかに「神」という究極的実在そのものには行為主義的な定義がそぐわないけれども、人間が「神」という制度を有することは行為主義的に理解できるのではないか。要するに、単に〈を信じること〉という句が省略されているだけではないか、ということが疑問として残る。そして、このことがまさに、盛山のゴールとしている「諸個人が世界に見出している意味はその本性上超個人的で普遍的なものと映じており、そのことによって制度は客観的なものとして立ち現れることになる」(同書、p.ⅴ)という主張を意味するのではないか。もっとも、そうはいっても我々の社会には「神」という観念があり、それが「制度」といえそうな形で機能しているのだから、やはり行動主義的に「制度」を定義するのは不十分だ、という考え方は十分ありうるし、盛山もそのように応答するのかもしれない。だから、私のこの疑問は蛇足である。

2024/02/23追記

本書の読書会でご一緒させていただいている方(以下Aさんと呼ぶ)から、この疑問点について、「盛山が「制度」に見出している含意、すなわち本性上超個人的で普遍的なものというのに、正義や神が含まれるということは、あまり違和感なく受け入れられるのではないか」という指摘をいただいた。私もたしかにその通りだと思い、考え直したところ、結局よくわからないのは〈「神」という制度があること〉と〈人々が「神」を信じていること〉の違いであるということに思い至った。これはより一般化していえば、客観性と間主観性の違いは何かという論点になるのだろうと思われる。

*3:ちなみに、なぜこのことが問題なのかについては、本書p.10がフーリーを引きながら説明をしているが、同部分についても見逃せない疑問がある。フーリーの批判の一つを、盛山は、「市場は生産しないという事実からして、市場は本来的に生産する人々ないし組織を前提としなければ成り立たない概念だ」(強調は私による。)と説明する。これについて、たしかに市場が「組織」から成り立つものであるということは、新制度学派への批判として適切である。なぜなら、組織によって成立している市場から企業という「組織」が立ち現れるのは当然のことであって、新制度学派が答えようとした問いに十分答えるものではないからである。しかし、市場が(組織化していないバラバラの)諸個人によって作られる場であるならば、そこから企業という組織が現れるのは、探求に値する不思議であって、まさに新制度学派が答えようとした問いだと思われる。だから、この批判が「新制度学派が結論先取をしてしまっているのではないか」という論旨であれば、市場が人々によって形成されているということを指摘するのは正しくない。なお、Aさんから提示された議論ではあるが、ここにおいて「市場は制度と呼べるのか」という問題が生じるということを、付記しておく。

「客観性」論文_[6]と[11]

マックス・ウェーバー(訳: 富永祐治・立野保男)『社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』』(岩波文庫、1998年)

 

 友人*1との読書会を通じて、先日記事を書いた*2[6]と[11]についての思考が進んだため、補足として記しておく。

 

[6]

 [6]の主張の一つは、ウェーバーが捉えた科学的考察というものは目的の目的適合性を見積もることができる、というものである。この読みはおそらく大きく誤っていない(「目的の目的適合性」という表現の是非はあるにせよ)。

 ただ、そのあとの部分の読解については、適切とは言い難かっただろう。私は、以上のように、ウェーバーの主張を「『目的aを立てること』の意義は、目的aの先にある(真の)目的Aを達成するうえで意義があるかどうか、という形で測定可能なはずである」という風に読み取り、ここから直ちに、アレント『人間の条件』における有意味性と有用性の論点を思い浮かべた。

 しかし、たしかに議論の構造はアレント功利主義に関するそれと似ているものの、だからといって、ウェーバーの主張は、アレントと同じ立場からのものでもなければ、アレントの批判対象でもないはずだ。私はてっきり、ウェーバーが、アレントの批判対象である功利主義と同様に、「目的aの意義は目的Aにとっての有用性(のみ)で判断される」ということを主張していると思ったため、ウェーバーアレントの批判対象であると思っていた。実際には、そんなことは多分ない。

 なぜなら、ウェーバーはここで、当該目的aとか目的Aの内実がどのようにある(べき)かということを一切論じておらず、ただ単に両者の関係に焦点を当てているだけだからである。すなわち、両者の関係についてしか論じていない以上アレントの批判対象と同じ匂いを感じるのは当然であるわけだが、別に、目的aの意義は目的Aとの関係のみから測定されるものではないはずで(少なくともそうウェーバーが考えている可能性は低くないだろう)、そうすると、結局両者それぞれの内部がどのような形をしているか、ということについてのウェーバーの考えが分からなければ、これをアレント(の批判対象)との対比で考えることはできない。

 

[11]

 前の記事では長々と、〔①〕〔②〕〔③〕の関係がわからないということを書いた。この点を悩んでいることについては、全く正当であったと思う。ただし、悩み方がもーりーとの読書会を通じて変わった。

 〔②〕「倫理的規範の『妥当』」について疑問を抱いていたが、ウェーバーが「妥当」という言葉にそれほどの意味を込めていないと解釈することが十分可能であって、そう解釈する方が適切であるように感じられる。

 ただし、そうだとしても、結局〔①〕〔②〕〔③〕の区別について私が感じる曖昧さは残る。ウェーバーはこれを「架橋しがたい区別」と述べているから、この感覚の違いは、ウェーバーの議論にこれから触れていくうえでの重要な参照点になると思われる。今後の課題としたい。

*1:彼にもこのブログの存在を教えたところ、直ちに彼もブログを開設した。リンクはこれである。

eduphilosophy2000.hatenablog.com

今後も彼との読書会で、考えが刷新されることが多いと思われる。その際は彼のことを「もーりー」と呼んで、私の記事に載せる。

*2:

watapon4869.hatenablog.com

watapon4869.hatenablog.com

「客観性」論文_[10]-[11]

マックス・ウェーバー(訳: 富永祐治・立野保男)『社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』』(岩波文庫、1998年)

 

[10]省略。

 

[11]長いため引用はしない。

 

 p.44「というのも、つぎのことは、あくまでも真であるからである。」の前後の論述がどのように対応しているのか、一見わかりづらい。

 〔①〕に対応するのは、「・・・科学的論証は、いかなるばあいにせよ、そうした目標を追求しなければならない・・・」という、「理念型」概念を想起させる部分かと思われる。

 順番は前後するが、〔③〕に対応するのは、「・・・ある理想につき、その内容を論理的に分析して、その究極の公理にまで遡り、・・・」という箇所だろう。これは難しくない。

 難しく思われるのは〔②〕である。これに対応するのは、以上のことを踏まえると、「すなわち、社会科学の領域で方法上正しい科学的論証が達成されたとすれば、それは、シナ人によっても正しい論証として承認されなければならない・・・」というところであろう。しかし、この読解は以下の二点の理由から間違いかもしれない。

 第一に、論述の順番がおかしい。(私の読解力不足ゆえ、私が分かりづらいと感じているだけかもしれない・・・。)

 第二に、科学的論証は「我々」とは異なる他者にとっても正しい(と認められる必要がある)という普遍主義的要請が、「倫理的規範の妥当が問題となるばあいに、われわれの良心に訴えているのか」という問題の具体例とはあまり思われない。私の考えでは、科学的論証が正しいと評価されるか否かというのは、そもそもそれが科学的論証たりうるか、という問題から生じる論点であって、それの「適用」における論点ではないように思われる*1法律学的な思考が有用かもしれない。

 

 

*1:前提として、私は、「科学的論証」を「倫理的規範」の具体例として読解している。そもそもこの前提が誤っているのかもしれず、そうすると、〔①〕と〔②〕の対応関係が前述のとおりなのかが怪しくなる。この前提が誤っている可能性は高いだろう。なぜなら、「妥当」という言葉は単に「倫理的規範」に対応する述語として用いられており、「科学的論証=倫理的規範」という読解を許すものではない、という可能性があるからである(「科学的論証」が「妥当」するとはどういうことなのか、一見わかりづらい。)。つまるところ、いずれ原文を読んで解消したい疑問ということである。今後の学習の課題としたい。

「客観性」論文_[1]-[9]

マックス・ウェーバー(訳: 富永祐治・立野保男)『社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』』(岩波文庫、1998年)

 

なお、本書で傍点による強調がされている箇所について、強調の引用までは本稿では行わない。それとは関係なしに、私が必要と思った箇所について、下線による強調を施す。

 

[1]そこで、まず、そうした〔社会政策の批判という〕目的と、手段をこうして〔科学に〕限定することとが、いったいどうすれば原理的に結びつけられるのか、という問題が生ずる。

 

[2]・・・「あるもの」〔存在〕の認識と「あるべきもの」〔当為〕の認識とは、原理的には区別されなかった。この区別を妨げたのは、第一に、変わることなく同一の自然法則が、経済事象を支配しているという見解であり、第二には、ひとつの一義的な発展法則が経済事象を支配する、といういまひとつの見解である。これらによれば、あるべきものは、第一の見解では、変わることなくあるものと、第二の見解では、不可避的に生成するものと、それぞれ一致することになる。

 

 引用部からは外れるが、この段落でいうところの「倫理的命令に特有の威厳」とは、「その形式的性格」のことであろう。形式的性格とはおそらく、具体的な事情に関係なく適用される性質のことを指している。倫理的進化論と歴史的相対主義の結合は、倫理的規範の形式的性格を簒奪し、また、その倫理的規範の妥当に「客観性」を与えることもしなかった。つまり、倫理的命令がただただ弱くなった。

 また、ウェーバーは、特定の「経済的世界観」から価値判断を生み出すことができるしそうしなければならないと信じている国民経済学に対して、不分明であると評価している。ただし、(客観的な)規範や理想から実践のための処方箋を導くことはできない、という命題は、科学的討論から一切の価値判断を排除すべきである、ということに帰結しない[5]。

 

[6]われわれがあるものを具体的に意欲するのは、「そのもの自体の価値のため」か、それとも、究極の意味において意欲されたもの〔の実現〕に役立つ手段としてか、どちらかである。

 

 功利主義に関する議論であり、アレント『人間の条件』でも同様の議論が展開されている。すなわち、一般的な功利主義はfor the sake ofとin order toの区別をすることができないというアレントの議論に、引用部は対応しているように思われる。ウェーバーは、これらを一旦区別してみせたうえで、科学的考察は、手段の目的適合性や目的の目的適合性(?)を見積もることができると主張する。

 おそらく、以下の部分が論争的であろう。

 

ということはつまり、間接的には、当の目的を立てること自体をも、そのときどきの歴史的状況〔の知識〕に照らして〔採用可能な適合的手段が見いだせるから〕実践上意味があるとか、あるいは、与えられた事情に照らして〔採用可能な適合的手段が見当たらないから〕無意味である、というふうに批判できる、ということである。

 

 これは結局、真の目的がなにかということを先送りしてしまっているのではないだろうか。アレント功利主義批判がまさに正鵠を射るようにも思われる。

 

[9]だがしかし、われわれがとくに(普通の意味での)経済政策と社会政策の実践的問題を考えるならば、じっさいうえの個別問題を議論するさい、特定の目的が自明なものとして与えられている、と全面的に合意して出発できるばあいが、なるほど多数、いや無数にある。・・・しかし、・・・ある問題が、社会的にみて政策的な性格をそなえているということの標識は、まさしく、当の問題が、規定の目的からの技術的考量にもとづいて解決されるようなものではなく、問題が一般的な文化問題の領域に入り込んでいるために、ほかならぬ統制的価値基準そのものが争われうるし、争われざるをえない、というところにある。

 

 なんとなく言いたいことはわかるが、「文化問題」とはなにか。単に相異なる複数の目的が衝突しているときにそれらの間で比較衡量がなされるというならわかるが、そういう話ではないのだろう。前の箇所で、「目的」を科学的に取り扱うことについて記述しているのだから。

 ウェーバーにおける文化が目的とは異なる、文化とは原理である、ということを傍証するのは、以下の記述かもしれない。

 

実践的な社会科学は、なによりもまず「ひとつの原理」を確立し、それを妥当なものとして科学的に確証し、その上で、当の原理から、実践的な個別問題を解決するための規範を一義的に演繹すべきである、というような見解が、まま専門家によっても相変わらず信奉されているが、これはもとよりナイーヴな信仰にすぎない。・・・また、倫理的命令が拘束力をもつ根拠や性質がいかに解釈されようとも、確かなことは、倫理的命令から文化内容を当為として演繹することはできない、ということである。

 

多元論と多様性

 まだ三日坊主にはならない二日目のブログ。引き続き平野千果子『人種主義の歴史』(岩波新書、2022年)*1を読むなかで考えたことを簡単に書きます。

 

 第2章第2節「思想家たちと奴隷/奴隷制」において、人類の起源が一つか複数かという論点をめぐり「単元論(単一起源論)」と「多元論(複数起源論)」の二つの立場がみられるということが紹介されています(p.62-)。単元論は、人類はもともと同じく一つであって後天的に差異が生じたという考えで、多元論は、そもそも最初から人類は異なっていたという考えです。

 

 気になるのは、多元論の扱われ方について。多元論を唱える思想家の具体例として、平野はヴォルテールを挙げています。『寛容論』を著したことでよく知られているヴォルテールですが、人種*2をめぐっては、「変えようのない本質的な相違ゆえに、黒人は他者の奴隷であるとも言明」(本書、p.63。)しています。また、ヴォルテールに限らず、その後奴隷制廃止運動(アボリショニズム)が高まってくるにつれ、運動反対派から、そもそも種として我々(白人)と彼ら(黒人)が異なる以上、優劣の差は埋められず、奴隷制は自然の摂理であるという理屈もきかれたといいます(本書、pp.65-66。)。

 

 さて、このことを紹介したのは、差別を容認・礼賛する陣営と、反差別を主張する陣営の議論の仕方が、今日とは一見正反対にみえ、奇妙な感じがするからです。

 多元論とどれほどパラレルに考えることができるかはわかりませんが、今日、「多様性」は反差別の文脈において積極的に肯定されるもののようにみえます*3

 

 「多様性」概念と「反差別」や「包摂」が内在的に結びつくものだと理解してしまうと、「多様であること」を理由とした差別を繰り返しても気づくことができないのではと考えた次第です。

*1:

www.iwanami.co.jp

*2:生物学的に人間の種が一つであり、「人種」概念は社会的につくられるものであるという平野の主張(本書序章など)を採れば、この言葉は鍵括弧つきで用いられるべきでありましょう。ここでは、便宜のために何もつけず用います。

*3:企業や大学などが「多様性」を目指すべき理念として掲げることでブランディングするほどに、「多様性」という言葉は肯定的に使われます。なお、それによる問題について、岩渕功一編著『多様性との対話 ダイバーシティ推進が見えなくするもの』(青弓社、2021年)、pp.14-20。

www.seikyusha.co.jp