わたぽんの気持ち箱

紡がれる言葉たち

制度論の構図_pp.1-10

盛山和夫『制度論の構図』(創文社、1995年)

 

 制度とは何か。本書はこの問いに対して決定的な解を提示しようとするものではなく、ありうべき答え(方)の概略について示そうと試みるものである。

 

 第一章「制度という問い」は、そもそもこの問いがどのような意味において難しい(価値ある)のかということを示す。

 

 「制度」を定義しようとしたとき、まず思い浮かぶのは行動主義的な記述らしい(本書、pp.3-4)*1。しかし、本書によれば、この定義はうまくいっていない。なぜなら、明らかに「制度」と呼ぶことができるような観念(「神」や「正義」など)は、決して人々の行動様式ではないからである*2

 とはいえ、行動主義的な定義は魅力的である。なぜなら、「制度」という目にはみえないものを、諸個人とかその行動という観測可能なものによって表現できるからである。もしかしたら、これまでの社会科学者はそのような魅力にとりつかれていたのかもしれない。実際には制度というものは理念的で観念的な性質をもつかもしれないのに、である(本書、p.7)。

 

 ここで、新制度学派の話が紹介される(1章第二節)。この節は、「制度という問い」の問いとしての意味が難しいということを示す、具体例として読むのが適切だと思われる。

 新制度学派が答えようとした問題は、「一体なぜ企業のような組織が存在するのか」(本書、p.8)というものである。本書の後で示されるような、企業というものはそれを企業たらしめる規範によって成立している、という見方をとれば、この問いは「制度とは何か」という問いに答えるうえで十分に有用なものであろう。実際に、新制度学派はそのように考えていたようである(本書、p.8)。

 新制度学派による上記の問いへの答えは、取引コストが存在するから、というものである。しかし、盛山によればこの回答は十分ではない。なぜなら、「市場」という場を前提として「制度」である企業を説明しようとするものでしかないからである*3

*1:本当にそうなのか、他の定義の仕方も十分あり得るのではないか、とは感じるのだけど、たしかに私も他の定義の仕方が思いつかない(思いつくとしても、何か超越的な概念をもちだしてしまうだろう)から、そうなのだろう。手元にある濱島朗ほか編『社会学小辞典〔新版増補版〕』(有斐閣、2018年)の「制度化」の説明も、「諸個人の行動様式が、制度と呼ばれるのに必要な属性を獲得する過程」となっている。

*2:ふとこの文章を書きながら疑問に思ったが、「神」や「正義」という制度を有するということは、神・正義〈を信じること〉だと思う。もしそういえるのであれば、たしかに「神」という究極的実在そのものには行為主義的な定義がそぐわないけれども、人間が「神」という制度を有することは行為主義的に理解できるのではないか。要するに、単に〈を信じること〉という句が省略されているだけではないか、ということが疑問として残る。そして、このことがまさに、盛山のゴールとしている「諸個人が世界に見出している意味はその本性上超個人的で普遍的なものと映じており、そのことによって制度は客観的なものとして立ち現れることになる」(同書、p.ⅴ)という主張を意味するのではないか。もっとも、そうはいっても我々の社会には「神」という観念があり、それが「制度」といえそうな形で機能しているのだから、やはり行動主義的に「制度」を定義するのは不十分だ、という考え方は十分ありうるし、盛山もそのように応答するのかもしれない。だから、私のこの疑問は蛇足である。

2024/02/23追記

本書の読書会でご一緒させていただいている方(以下Aさんと呼ぶ)から、この疑問点について、「盛山が「制度」に見出している含意、すなわち本性上超個人的で普遍的なものというのに、正義や神が含まれるということは、あまり違和感なく受け入れられるのではないか」という指摘をいただいた。私もたしかにその通りだと思い、考え直したところ、結局よくわからないのは〈「神」という制度があること〉と〈人々が「神」を信じていること〉の違いであるということに思い至った。これはより一般化していえば、客観性と間主観性の違いは何かという論点になるのだろうと思われる。

*3:ちなみに、なぜこのことが問題なのかについては、本書p.10がフーリーを引きながら説明をしているが、同部分についても見逃せない疑問がある。フーリーの批判の一つを、盛山は、「市場は生産しないという事実からして、市場は本来的に生産する人々ないし組織を前提としなければ成り立たない概念だ」(強調は私による。)と説明する。これについて、たしかに市場が「組織」から成り立つものであるということは、新制度学派への批判として適切である。なぜなら、組織によって成立している市場から企業という「組織」が立ち現れるのは当然のことであって、新制度学派が答えようとした問いに十分答えるものではないからである。しかし、市場が(組織化していないバラバラの)諸個人によって作られる場であるならば、そこから企業という組織が現れるのは、探求に値する不思議であって、まさに新制度学派が答えようとした問いだと思われる。だから、この批判が「新制度学派が結論先取をしてしまっているのではないか」という論旨であれば、市場が人々によって形成されているということを指摘するのは正しくない。なお、Aさんから提示された議論ではあるが、ここにおいて「市場は制度と呼べるのか」という問題が生じるということを、付記しておく。