わたぽんの気持ち箱

紡がれる言葉たち

「客観性」論文_[1]-[9]

マックス・ウェーバー(訳: 富永祐治・立野保男)『社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』』(岩波文庫、1998年)

 

なお、本書で傍点による強調がされている箇所について、強調の引用までは本稿では行わない。それとは関係なしに、私が必要と思った箇所について、下線による強調を施す。

 

[1]そこで、まず、そうした〔社会政策の批判という〕目的と、手段をこうして〔科学に〕限定することとが、いったいどうすれば原理的に結びつけられるのか、という問題が生ずる。

 

[2]・・・「あるもの」〔存在〕の認識と「あるべきもの」〔当為〕の認識とは、原理的には区別されなかった。この区別を妨げたのは、第一に、変わることなく同一の自然法則が、経済事象を支配しているという見解であり、第二には、ひとつの一義的な発展法則が経済事象を支配する、といういまひとつの見解である。これらによれば、あるべきものは、第一の見解では、変わることなくあるものと、第二の見解では、不可避的に生成するものと、それぞれ一致することになる。

 

 引用部からは外れるが、この段落でいうところの「倫理的命令に特有の威厳」とは、「その形式的性格」のことであろう。形式的性格とはおそらく、具体的な事情に関係なく適用される性質のことを指している。倫理的進化論と歴史的相対主義の結合は、倫理的規範の形式的性格を簒奪し、また、その倫理的規範の妥当に「客観性」を与えることもしなかった。つまり、倫理的命令がただただ弱くなった。

 また、ウェーバーは、特定の「経済的世界観」から価値判断を生み出すことができるしそうしなければならないと信じている国民経済学に対して、不分明であると評価している。ただし、(客観的な)規範や理想から実践のための処方箋を導くことはできない、という命題は、科学的討論から一切の価値判断を排除すべきである、ということに帰結しない[5]。

 

[6]われわれがあるものを具体的に意欲するのは、「そのもの自体の価値のため」か、それとも、究極の意味において意欲されたもの〔の実現〕に役立つ手段としてか、どちらかである。

 

 功利主義に関する議論であり、アレント『人間の条件』でも同様の議論が展開されている。すなわち、一般的な功利主義はfor the sake ofとin order toの区別をすることができないというアレントの議論に、引用部は対応しているように思われる。ウェーバーは、これらを一旦区別してみせたうえで、科学的考察は、手段の目的適合性や目的の目的適合性(?)を見積もることができると主張する。

 おそらく、以下の部分が論争的であろう。

 

ということはつまり、間接的には、当の目的を立てること自体をも、そのときどきの歴史的状況〔の知識〕に照らして〔採用可能な適合的手段が見いだせるから〕実践上意味があるとか、あるいは、与えられた事情に照らして〔採用可能な適合的手段が見当たらないから〕無意味である、というふうに批判できる、ということである。

 

 これは結局、真の目的がなにかということを先送りしてしまっているのではないだろうか。アレント功利主義批判がまさに正鵠を射るようにも思われる。

 

[9]だがしかし、われわれがとくに(普通の意味での)経済政策と社会政策の実践的問題を考えるならば、じっさいうえの個別問題を議論するさい、特定の目的が自明なものとして与えられている、と全面的に合意して出発できるばあいが、なるほど多数、いや無数にある。・・・しかし、・・・ある問題が、社会的にみて政策的な性格をそなえているということの標識は、まさしく、当の問題が、規定の目的からの技術的考量にもとづいて解決されるようなものではなく、問題が一般的な文化問題の領域に入り込んでいるために、ほかならぬ統制的価値基準そのものが争われうるし、争われざるをえない、というところにある。

 

 なんとなく言いたいことはわかるが、「文化問題」とはなにか。単に相異なる複数の目的が衝突しているときにそれらの間で比較衡量がなされるというならわかるが、そういう話ではないのだろう。前の箇所で、「目的」を科学的に取り扱うことについて記述しているのだから。

 ウェーバーにおける文化が目的とは異なる、文化とは原理である、ということを傍証するのは、以下の記述かもしれない。

 

実践的な社会科学は、なによりもまず「ひとつの原理」を確立し、それを妥当なものとして科学的に確証し、その上で、当の原理から、実践的な個別問題を解決するための規範を一義的に演繹すべきである、というような見解が、まま専門家によっても相変わらず信奉されているが、これはもとよりナイーヴな信仰にすぎない。・・・また、倫理的命令が拘束力をもつ根拠や性質がいかに解釈されようとも、確かなことは、倫理的命令から文化内容を当為として演繹することはできない、ということである。